最終更新日:2024年11月8日
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元禄14(1701)年の『摂陽群談』には兵庫名物として、鰯漬やスダレ干しの小鰯を挙げている。当時、兵庫は魚の町で知られ、宿泊客や京・大坂の市場に早船で売り出して好評だった。寛政8(1796)年の『摂津名所図会』は、魚市のほか南浜の今出在家町にあった『兵庫生洲』を紹介している。長さ十三間、幅四間(約24×7m)ほどで屋根を持ったいけすに鯛、鱧、鱸など多彩な魚が飼われていた。不漁時にはここから活魚を市場に出したり、京の御所にも献上したと伝えられている。
鍛冶屋町は旧兵庫津北浜11町の中心にあり、自治行政を行なった『北浜惣会所』が置かれていた場所。北浜惣会所の一帯は、安永から天明期(18世紀後半)の兵庫津の商業・交易を独占した北風家の本拠地として、また日本の海運を担う拠点として大いに栄えた。
北風家は代々「荘右衛門」を名乗り、諸荷物問屋として西国・山陰・北海道から物資を集めて「兵庫津に北風あり」と有名だった。とりわけ荘右衛門貞幹(1736~1802)は蝦夷地交易の利に着眼し、高田屋嘉兵衛を後援。肥料のニシンしめかす(干鰯)を大量に仕入れた。これによって西日本の農業生産は急速に増えたと言われる。幕末・維新期に家を継いだ正造貞忠は尊王の志厚く、兵庫津の発展にも貢献したが、家は明治20年代に没落。『正造貞忠の碑』だけが北逆瀬川町の能福寺境内に残っている。
西出町に建つ鎮守稲荷神社の鳥居脇には、文政7(1824)年に高田屋嘉兵衛が奉納した一対の石灯籠がある。嘉兵衛は淡路出身で、寛政4(1792)年に兵庫津に来た。北風家の後援もあって4年後に1500石積みの辰悦丸を造り、北前船貿易で巨富を稼いでクナシリやエトロフまで手を広げた。嘉兵衛は西出町に本店を構え、のちに函館の街を発展させた。
旧西国街道の西側出入口には『柳原(西)惣門』があった。元禄9(1696)年の地図にも記載されている。蛭子神社(ひるこじんじゃ、通称・柳原えびす)の門前には明治維新まで高札を掲げる札場があり、かご屋も集まっていたことから「捧鼻(かごのかつぎ棒の端)」の別称がある。
『湊川惣門』は兵庫津東の出入口、西国街道に面していた。ここには番所が置かれ札場があった。湊口の東は旧湊川で慶応元(1865)年まで橋はなく、雨で水量が増えると通行止になり、参勤交代の一行や旅人があふれたという。
湊川八幡神社の付近は人の往来が多く、「迷子のしるべ石」が建てられていた。迷子を探す場合は特徴・年齢・住所・氏名を紙に書いてこの石に張りつける。保護した場合もここへ連れてきて保護者に引き渡したり、保護者が見つからないときは迷子の住所・氏名などを書いた紙を張るようになっていた。戦災で折れたもとの石は鉄枠で補強され、横に新しい碑が建てられている。
兵庫津南浜6町のうち新在家には、岡方・北浜と並ぶ兵庫三方(みかた)の一つである『南浜惣会所』が置かれていた。町民より選出された名主や年寄りが町政をとりしきる惣会所は、玄関には式台を設けて屋根は破風造の立派な建物だった。惣会所が無くなってからは記念碑だけが県立水産会館の建物にはめこまれ保存されてきた。
戦国末期に兵庫城を築いた池田恒興は、兵庫津の北辺に堀と土手を築いた。その内側に大きな寺院がならんでいるのは、城下町時代の兵庫の防衛線かと思われる。江戸時代には豪商北風家の菩薩寺として栄えた。
神明町の法蓮寺は水戸徳川家ゆかりの寺。応永元(1394)年2月23日、開基・日融上人の命日を開創とし、江戸時代には徳川御三家の崇敬を集めて幕末まで隆盛を極めた。国土安泰・商業繁栄・眼病平癒などのご利益があるとして庶民の信仰も厚く、戦前までは参詣人の姿が絶えなかったという。現在の堂宇は震災後の再建で、境内に日融上人の墓がある。
元禄5(1692)年の記録によると、門口町にある久遠寺は永享年中(1429~40)に日隆上人が開いたという。かつては浜辺に建っていたので「浜の寺」とも呼ばれたこの寺は、当初は真言宗でのち日蓮宗に改められた。
兵庫津は西国街道の本宿だった。『柳原惣門』を入って神明町に来ると、西側に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、その南隣に三木屋作右衛門の4軒の脇本陣があった。これらは大名と供の者の宿泊所であり、ほかにも宿がたくさんあったが、参勤交代や湊川が洪水で越せない場合などは、さらに一時宿として町家に泊めることもあったという。
多くの有力な問屋があった兵庫では、江戸時代以降、大名と商人が密接な関係を築いてきた。藩の物産を一手に扱う特権を与えられた商人たちは、参勤交代のおりに大名が宿泊する『浜本陣』を競って建てた。
正直屋棰井家(戸籍登録上、子孫の姓は捶井)は本町2丁目にあった。北風家と同様に兵庫の名家で、室町時代からその名が文献に記され、兵庫の関の代官や問丸(といまる、問屋の前身である仲介・中継業)を営んでいた。豊臣秀吉の命で兵庫の関税を『船役銭』という名目で取扱い、「座」すなわち同業組合の税や町税も扱い、江戸時代には名主を務めた家柄である。貴重な古文書・絵図を多数所蔵していたが、戦災で焼けて他所へ移った。
いまの鍛冶屋町に豪商・北風家があった。北風家が大いに繁栄する要となったのが西回り航路の興隆。寛永16(1639)年、加賀藩主前田利常の依頼を受けて北風彦太郎が航路を整備したと、北風家の記録に残されている。北国船が入港した時代には特に繁盛し、日本の海運界で大きな地位を占めていた。北風家は北浜惣会所の歴代名主にも何度も選ばれている。
高田屋嘉兵衛は淡路島に生まれて寛政4(1792)年に24歳で兵庫に移り、船乗りを経て自ら船を建造し船主となった。西出町の邸宅があった場所に昭和28年、地元の有志によって『高田屋嘉兵衛顕彰碑』が建てられ、現在は竹尾稲荷神社に移設されている。
天保から嘉永にかけて、広瀬旭荘の影響で漢学が盛んになった。旭荘は長田村に生まれ、網屋を継いだ増田三太夫に頼まれて北仲町に『漢学塾慎明舎』を開校。この塾は1年半で閉ざされたが、その影響は大きく、門下生の中から草創期を背負った先覚者を数多く輩出している。
工楽松右衛門は兵庫の北風家番頭・喜多二平の家に長年住んで、研究を重ねながら独自の船の帆を発明した。これが「松右衛門帆」で、天明(1781~1788)期に瀬戸内から北陸・東北、蝦夷地までの航路で盛んに使われた。羽坂通2丁目の八王寺にはその工楽松右衛門の墓がある。
本町公園西の岡方会館は『岡方惣会所』の跡にあり、古文書などが多数保存されてきた。兵庫の地はかつては町部と田園部に分かれ、町部を「地子方(ぢしかた)」田園部を「地方(ぢかた)」と呼んでいた。地子方はさらに岡方・北浜・南浜の三方(みかた)に分かれ、岡方は浜に接しない町々を総称していた。三方にはそれぞれ惣会所があり、名主が出勤して総代や年寄などを指揮し、行政を行っていた。
高田屋嘉兵衛は寛政11(1799)年に幕府の命で巨船を造り、クナシリ・エトロフ航路を開いた。そこで七宮神社に模型船3隻を献納して海上安全を祈願し、これに習って多くの廻船業者が、この神社に航海安全を祈願したと伝えられている。残念ながら戦災によって宝物は全部焼失した。
天門山祥福寺は貞享2(1685)年、雲厳和尚によって創建された。天保2(1831)年になると、伊予宇和島から来た黙伝和尚が禅堂を開き、安政文久年間に匡道(きょうどう)和尚によって現存する伽藍が建てられた。東福寺の山門前から坂を上がると祥福寺に至り、現在も修養道場として雲水たちが厳しい戒律を守って修行を積んでいる。
元禄5(1692)年の兵庫津の『寺社改帳』には、蛭子(ひるこ)神社は昔からあるが創建年代は不詳とされている。毎年1月9日~11日の「十日えびす」はたいへんにぎわい、向かいに建つ福海寺の大黒天と合わせて参詣客が多い。
南仲町の辻は兵庫宿の中心で、東から入ると西国街道は南仲町から大きく右折していた。ここには高札(町人への法令や、幕府の布達を掲示する札)を掲げる札場があったので、俗に「札の辻」「札場(ふだば)の辻」と呼ばれていた。兵庫の札場はほかにも柳原と湊口の東西惣門、島上町の来迎寺(築島寺)前にもあったという。
幕府御用船頭として活躍した高田屋嘉兵衛は、日本の造船・開拓・商業の発展に寄与した。文化8(1811)年のゴローニン事件に際しては、日露間の紛争を身をなげうって解決したので、日本はもちろんロシアでも知られている。西出町の公社賃貸入江住宅あたりに邸宅があったといわれ、功績を讚える碑が立てられたが、現在は竹尾稲荷神社に移されている。
和田岬西方にあった砂丘が和田山で、その西南部一帯で、天保4(1833)年ごろに西宮の油屋善右衛門が、五十町歩の開拓許可を願い出た。油屋の姓が吉田だったので開拓地は吉田新田と呼ばれた。一帯は和田岬方面の発展に伴って宅地化されたが、明治32年に開発事業60周年を記念して『吉田新田開発記念碑』が立てられている。