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最終更新日:2020年6月3日
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-神戸ふるさと文庫だより-
神戸市立中央体育館
神戸名菓といわれるもののひとつに瓦せんべいがある。メリケン粉、砂糖、卵を練って瓦型に押し焼いた甘口の煎餅で、サクサクと歯ごたえがあり、口の中でとける風味が香ばしい。「本来は固くて歯のたたぬ瓦をパリパリとやれる痛快さが、なんとなしに気に入った」と述したのは詩人の竹中郁だが、なるほど、そんな気で食べていると、何枚でも食べてしまう。
似たような煎餅が全国にあるなか、神戸みやげとなった由縁は、明治からの歴史と、何といってもその図柄にあろう。店にもよるが主な図柄は、楠正成公の武者姿、楠公父子別れの図、湊川神社の紋〈菊水〉の三つ。神戸っ子に「楠公さん」と親しまれた湊川神社、楠正成を用いたのが、決め手である。
明治七年の鉄道開通以来、神戸駅から湊川神社までは、旅館や土産物店がひしめく商店街になっていた。「店頭高く掲げられた巨大な看板を楠公事蹟の顕彰と思ってよく見れば、それは全て煎餅屋の看板だった」という話も残っているが、神社周辺の賑わいと共に煎餅屋はおおいに繁盛した。
内海 敏夫
筆者を専門外の町並み風景画に導いたのは、同人誌「文芸日女道(ひめじ)」の表紙を依頼されてからという。土地の気候・風土に根ざし、生き延びてきた家々や街並みの姿は、実に多様で見る者を飽きさせない。しっとりとした落着きのある画面からは、そこに暮らす人々の息づかいが感じられる。柔らかい色調の水彩で、ていねいに写しとられた風景たちは、現代人が失いつつある、「心の原風景」を呼び覚ましてくれる。
(神戸市会事務局)
本編には昭和三六年から昭和四五年までの市会の活動記録が収められている。
この一○年間は日本がかつてない高度経済成長を遂げ、神戸市でもポートアイランドの建設、港湾整備、都市計画、下水道整備、明石架橋建設の基礎など、巨大な事業が進められた時期である。慢性的な住宅不足の問題をめぐる市長と議員の応酬など、興味深い場面が多い。
一海知義 筧久美子 筧文生(かもがわ出版)
日本語、中国の文化、漢詩などに関わるさまざまな漢語について、自由気ままに書かれた短文集。
著者は、神戸市在住で中国文学者の一海氏と、同じく中国文学者の筧夫妻の三人である。
「漢語」とは、まず漢字で書けることばであるが、定義はいろいろとあって難しい。
「散歩」は純粋の漢語であるが、漢語の世界における散歩は、なかなか楽しそうである。
筒井康隆(文芸社)
九つの対談と二つのインタビューが収められている。「震源地に一番近かった作家」の章では、淡路島を対岸に臨む高台の自宅で被災した生々しい状況が語られている。体験した恐怖や被害の実態は、言葉やTVカメラの映像ではとうてい伝えることはできないという作家の言葉は、被災者の実感でもある。
差別語をめぐる対談では、文学の表現にかかわる重い問題を投げかけている。
(神戸ファッション協会)
神戸の食文化の魅力とは何か。本書は、多方面からのアプローチでその魅力を浮き彫りにし、全国に発信しようという試みである。
内容は、神戸の洋食の歴史や、洋菓子、パン、清酒などの各企業へのインタビュー、神戸の食に関する市民の声のほか、もてなしを演出するインテリアにまで及ぶ。神戸の食文化の奥深さを感じさせる一冊である。
廣重聰ほか編(風来舎)
かつて文芸評論家の故小島輝正氏は、「地上に出て音高く流れるものだけでなく、音もなく地下を流れるものこそが純粋な文学の流れではないか」と、『関西地下文脈』を編んだ。『兵庫県地下文脈大系』は、その思いに拠ったかたちで、兵庫県下に在住・在勤の同人誌作家に限って、その作品を実作で示そうとする試みである。本編では五〇年の歴史を持つ同人誌「VIKING」の中から、九名の作家の作品を、「VIKING」を船になぞらえ、その乗船順に紹介している。
大野芳(光人社)
神戸で成功を治めた貿易商モーリスを父に、日本人女性喜勢を母に持ったフェナン・ティエック。彼は北野の豪壮な異人館に生まれ、少年時代を過ごし、晩年をフランスのビアリッツで迎えた。本書は彼が神戸に住む親戚に宛てた書簡という形をとった、一種の回想録である。
戦前の神戸では、その後敵味方に分かれて戦うことになる、英、独、仏、米そして日本など、各国の人々が、国籍にとらわれず自由に交流していた。その空気の中に育った彼は、第二次大戦が始まるとフランス空軍に志願し、戦争の厳しさ、不条理を味わっていく。自らをカンディード(世間知らず)と称する彼の言葉に、その時代をいとおしむ気持ちが伝わってくる。
中川尚之(ビジネス社)
大被害を受けた住友ゴム神戸工場を前に工場長は、まず夜勤従業員の安否を確認し、次には家族の元へ戻るように指示した。他方、幹部は被害状況の把握と再建に向けての方策を探って奔走する。わずか六日にして積極果敢な再建策が決まるが、それは、近代ゴム工業発祥の地である神戸工場の廃止と、従業員八五○人の転勤という苦渋の選択をともなうものとなった。
(阪神大震災を記録しつづける会)
「阪神大震災を記録しつづける会」による体験記の第三集にあたる。今回の応募一八五編の中から選ばれた五四編が載せられている。
震災から三度目の夏も過ぎたが、「心の復興」だけでなく「ものの復興」すらもまだまだと思わせられる。
さまざまな想いが、被災地の今を浮き彫りにしている。
兵庫県臨床心理士会編(ナカニシヤ出版)
阪神・淡路大震災は、歴史に残る大災害であったが、災害時の心のケアが大きく取り扱われた災害でもあった。しかし、心のケアといっても臨床心理士たちにとっても初めてのことなので、まったくの手探りのなかの活動であった。そして臨床心理士自身も被災しているなか、何ができたのか、何をしたのか、あるがままに語られた報告書である。臨床心理士たちの多くの体験は、今後の災害時における心のケアについて多くの示唆を与えてくれる。
先ごろ青森秋田県境の白神山地のブナ原生林が、世界文化遺産に指定されました。ブナは冷温帯を代表する落葉広葉樹で、日本では北海道南部から九州までの広い範囲で見られますが、その分布は東北など東日本が中心です。また、日本で見られるブナ類は、ブナとイヌブナの二種類です。樹皮が灰白色でなめらかなブナはシロブナとも呼ばれ、ブナよりやや小型で樹皮が黒っぽくざらざらしているイヌブナは、クロブナとも呼ばれています。
六甲山では山頂付近にわずかにこの両方が自生していますが、ブナが孤立木であるのに対し、イヌブナは立派な林を形成しています。これらが裏六甲にあることは以前から知られていましたが、表六甲にもあることがわかったのは、昭和五十年代になってからのことです。調査の結果、東六甲の南斜面に一○○本ものブナと、十三ヶ所ものイヌブナ林が発見されました。ブナは樹齢二○○年、イヌブナ林は一○○年ほどの年齢で、これらは六甲山にも手つかずの自然が残っていることを示しています。
六甲山カンツリーハウス東側から有馬へ下る、紅葉谷ハイキングコースの周辺では、案内板もあり、ブナを容易に見つけることができます。初夏には、ブナの白い木肌とやわらかい新緑が目にやさしく、秋の紅葉の季節には、紅葉谷を彩るカエデの赤色の中に、ひときわ目立つブナの豊かな黄金色が見られます。
縄文のむかし六甲山は、山麓から山腹をシイやカシが、山頂あたりをブナやミズナラがおおっていました。しかし中世になると六甲の山々は戦いの舞台となり、築城のために森は伐採され、戦いのたびに山火事がおこり、森は破壊されました。近世には農民が燃料や肥料を得るために、下草や松の根までをも取りつくしてしまい、原生林は太山寺や再度山などの寺社林にわずかに残るのみとなりました。江戸時代の「摂津名所図会」や、明治はじめ頃の写真を見ると、六甲山はほとんどがはげ山だったことがわかります。
六甲山はもともと崩れやすい花崗岩の地質にくわえ、中世以来の乱伐で保水力が低下し、大きな土砂災害を何度となくおこしていました。そこで明治三十五年、布引の水源を守り、災害から市民を守るために、六甲山の植林が開始されました。たび重なる集中豪雨、戦禍、山火事などさまざまな障害がありましたが、九十年をへた現在、ようやく緑の姿を取り戻したのです。
昭和十三年の阪神大水害のさい、森林と山崩れの関係について興味深い報告がなされています。広葉樹が一○○%をしめる摩耶山の国有林が全く崩壊していないのにくらべ、四九%の堂徳山、二四%の東山と、広葉樹林のしめる割合が少なくなるほど、崩壊の割合が多くなっています。松などの針葉樹にくらべて、ブナやカシなどの広葉樹の根は大きく広がって大地をつかみ、山崩れを防ぐのです。
平成七年の震災で六甲山には多くの危険箇所ができ、現在も復旧の努力が続けられています。しかしそれだけではなく、わたしたち自身の手で、六甲の原自然ともいえるブナなどの広葉樹林を守ることが、災害を防ぐためにも必要なのだと感じます。