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BE KOBE神戸の近現代史

感染症と上下水道・病院など都市基盤整備 (詳細)

神戸の水道布設

慶応3年(1868)の開港以来、港町として発展を続けてきた神戸にとって、安全で安心な飲料水の確保は大きな課題であった。神戸には大きな河川もなく、飲料水の大半は井戸水に頼っていたため、夏季ばかりでなく四季を通し水が不足していた。

神戸港の発展に伴い、人口が大幅に増えると、限られた飲料水はさらに乏しくなり、水質の劣化や汚染に繋がった。明治10年(1877)に市内でコレラが発生すると、飲料水をはじめとする衛生環境の悪さから感染は瞬く間に拡大し、神戸市民に多数の死者をもたらした。これを機に、神戸市内でも水道布設の重要性が説かれるようになったのである。また、明治18年(1885)には横浜にて、イギリス人のパーマーによる設計で近代水道が布設されることとなり、より一層水道布設の機運が高まった。

しかし、明治20年(1887)にパーマーに水道布設の設計を依頼したところ、布設には40万円もの費用がかかることが判明。多額の費用からなかなか市民の理解を得られず、水道布設に時間を要することとなった。

その後、日本の各都市で水道の整備が進んだことや、兵庫県からの働きかけ、再度の感染症流行を受け、ようやく神戸市内に水道布設に向けた動きが生じ、明治25年(1892)にイギリス人のバルトンに設計を依頼することとなったのである。

このまま順調に水道布設が進むと思われたが、市民や議会の理解を得るにはさらに時間を要し、明治30年(1897)5月28日、ようやく起工式を迎えることとなった。

人口増加や都市の発展に伴い、当初設計から大幅な変更を強いられることにはなったが、明治33年(1900)1月、当初計画の範囲内にあった布引貯水池や奥平野構場の浄水池などが完成。工事は全工程完了していなかったものの、同年3月24日に念願の通水式が開催された。こうして神戸水道は給水の第一歩を踏み出すことになったのである。

その後も工事は続き、明治38年(1905)5月には烏原貯水池が完成。これにて神戸水道の創設工事はすべて完了し、同年10月27日竣工式が執り行われた。

不思議なことに、起工式、通水式、竣工式いずれの日も雨が降ったため、参加者は皆、「水神の感応としか思えない」と語ったとの記録が残っている。

神戸の下水道整備

神戸の下水道整備について、明治初期においては旧居留地内に、煉瓦造りの下水道が布設されていた。これは、横浜に存在するものとほぼ同時期に設けられており、近代下水道としては日本最古のものである。しかし、居留地を出ると、その他の状況はひどい有様で、下水溝も不完全で機能せず、降雨のたびに汚水があふれたとの記録が残っている。

その後、急速な都市化に合わせて多少整備は進んだものの、従来田畑の間を流れていた溝渠を改築または拡築する程度に留まり、依然として衛生環境は悪いままであった。

コレラなどの感染症の流行や、上水道の整備の流れとともに、下水道についても整備を求める声があがった。明治24年(1891)には下水幹線5本の改修計画が持ち上がり、明治27年(1894)まで調査が行われた。一度は立ち消えになったものの、上水道の給水が完成した明治33年(1900)に再度調査が実施され、汚水と雨水を同じ管で流す「合流式」下水道計画が策定された。しかし、当時の市の財政状況は悪く、計画実現には至らなかった。

明治36年(1903)には、記録的な大雨により水害が生じた。これをきっかけに、雨水排除を目的として下水改修計画が立てられ、明治39年から44年にかけて、市内に6幹線の改修工事が実施された。

その後の整備は思うように進まず、大正8年(1919)と昭和4年(1929)には下水処理場まで含んだ詳細な下水道計画が立てられたが、いずれも財政窮乏のため実施されなかった。

本格的な下水道整備事業に着手したのは昭和に入ってからのことで、昭和11年(1936)に水道部に下水課が設置され、合流式下水道計画に着手した。そして、雨水と汚水を別の管で流す、分流式下水道計画についても計画策定されたが、残念ながら戦争が本格化していく時代であり、これらの事業も中止の憂き目にあった。戦争の激化に伴い、膨大な経費を必要とする下水道整備は後回しとなった。

戦後の混乱も収まりかけた昭和25年(1950)、水道局に下水課が復活し、ようやく神戸市でも近代的下水道の建設が開始されることとなった。

昭和26年からは、生田区・兵庫区の中心部を対象にした第1期下水道事業が始まり、その後も各地で次々と工事が進んだ。

神戸の病院整備

明治に入って、神戸でも東京、長崎、大阪とともに、洋式医学教育機関の基礎が築かれるようになった。当時の居留地は外国人の間で不衛生との風評があったこともあり、明治2年(1869)、兵庫県は宇治野村(現中央区下山手通)に神戸病院を設立した。これが県立神戸病院(現神戸大学医学部付属病院)の始まりである。さらに、明治4年(1871)には、イギリス、アメリカ、ドイツの人々によって生田神社前に神戸万国病院が創立され、外国人医師が居留民や外国船舶の乗組員らの治療を行った。

明治10年(1877)、市内でコレラが大流行し、患者が路上に溢れるまでの惨状になった。そのため、兵庫県は東山避病院のほか、吉田新田、和田岬に病舎を設立し、患者の収容に努めた。コレラの流行後、吉田新田、和田岬の病舎については閉鎖されたが、東山避病院の病舎はそのまま残り、コレラや発疹チフスの流行のたびに病院が開設されることとなった。

明治22年(1889)、市制実施により神戸市が誕生すると、東山避病院については市の管理となった。市内では、コレラやペスト、痘そうなどの流行が絶えず、感染症拡大防止の観点から自宅には置いておけない患者も数多く存在したため、明治33年(1900)には、東山避病院を常設とした。これが神戸市立東山病院の始まりである。

明治時代の公衆衛生行政は、そのほとんどが感染症対策に終始していた。大正に入っても引き続き感染症の流行はあったものの、ようやく社会福祉的な面から病院の整備が進められるようになった。大正の前半には数回にわたって東山病院が増築され、300を超える収容数が確保された。特に、大正7年(1918)~大正9年(1920)には、いわゆるスペイン風邪が大流行し猛威を振るった。大正10年前後に神戸市の人口が70万人を超えると、市内には貧困層も増え、健康衛生状態のすぐれない市民が増えることとなった。そのため、大正13年(1924)には「神戸市民住民にして医薬の資に乏しき病傷者を診療す」との理念をもって長田区三番町に市立神戸診療所を設立。大正末期にはほぼ全市に衛生施設が広がった。

昭和に入っても感染症との闘いは続いた。戦争により市の医療施設はその約半分を失ったが、昭和23年(1948)ごろから、病院施設の復旧、拡充が活発となり、市立須磨病院、神戸市立中央市民病院などの整備が進んだ。こうして現在の神戸の市民病院の基礎ができあがっていったのである。

コラム記事

コラム

布引の水

新神戸駅から徒歩10分程度に位置する布引の滝には足を運んだことがある人も多いのではないだろうか。神戸の観光名所の一つである布引の滝は、かの有名な「伊勢物語」や「平治物語」にもその名が登場し、「布引三十六歌碑」に代表される多くの名歌が残っていることからも、古くから愛されてきたことが分かる。また、滝の周辺は新神戸駅から六甲山へ向かうハイキングコースとして整備され、多くの市民でにぎわっている。

布引の滝の上流には水道専用としては日本最古の重力式コンクリートダムである布引ダムがあり、国の重要文化財に指定されている。正式名称は布引五本松堰堤で、神戸水道創設期の施設として明治33年に建設された。この布引貯水池を水源とした水道水は、かつて神戸へ来航した船舶への給水に使用され、その品質の高さから「赤道を越えても腐らないおいしい水」と言われていた。

神戸市水道局では、かつて世界の船乗りから愛されたこの布引渓流の水を浄水し、ボトルドウォーターとして製造を行っている。神戸市総合インフォメーションセンターで販売しているため、興味のある方はぜひお楽しみいただきたい。